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自分の「からだ」(身体) 【この頃思うこと-40-】 [この頃思うこと]

自分の「からだ(心と身)」 【この頃思うこと-40-】
 自分のからだが与えられて83年目を迎える感慨はあまただが、その一つとしてボンド夫人の死生観が心に浮かぶ。ボンド夫妻は我々の留学時代に結婚式や生活で親代わりだった恩人だ。1978年当時の日本はいまのでは想像もできないがまだガン予告がほぼ皆無で、夫人から「余命数ヶ月と告知され会いたい」とのこれもまえになかった國際電話に驚き訪米した。60歳近い夫人は熱心なクリスチャンでオハイオ教区主教のもと教区宣教部長だった。三日間の滞在中、米国内各地や南米などから病を知った十人ほどの来宅者に、途中で「失礼」と短時間席を外す以外は、いつもの笑顔で涙も見せず来訪を感謝し歓談していた。滞在最後の朝「心身ともに会うのは辛いでしょう」と訊ねると「死は神のみもとに行くのだから怖くない。でも自分がいなくても世の中は変らず動くと思うと少し寂しい気はする。予告でYoshi(私)や親しい人にお礼を言う時間と機会を与えられた神に感謝する。激痛時はモルヒネ使用をと薦められたが、痛みの間も与えられた貴重な「生の時間」だから客には失礼だが中座して耐えている。最後は自宅で静かに知人を思い祈りながら神に召されたい」とその時だけは涙ぐんでいた。半年後に「お見舞い有り難う、Yoshi一家のことも祈っています」との電話があり、数日後に安らかに召されたとの死亡通知が届いた。
 米国では聖書を一字一句違わす信じる原理主義者もいるが、書かれた時代の人の理解度で記述されたとする人も多くその観点での新約聖書研究も進んでいる。キリストの復活の信仰もその両論から峻別すれば、字句通り肉体の復活と信じることと、十字架前に見放され無視されたキリストとその生き方の教えが、同じ見放した人達の心の中に日を経ずして強く蘇ってきて生き方とその意義を示し続け、二千年経ったいまでも数億人の心や祈の中に生きていることと解釈し信じることとなる。亡くなった多くの知人も私の心の中では活き活きと生きている。デカルトの「我思う故に我あり」は私には「人は思い信じることで生きている」と解釈できる。夫人の「与えられた自分の時間でからだを極限までは使い切るまで生きたい」とした生涯は神への揺るぎない信頼(信仰)に基づいていたと思える。
  現レベルの科学では心身の働きは記憶も含め脳神経の電気信号のつながりで生じるつまり脳死で記憶の全てが消失するとする。人は無から父母を介して固有の時間の間、そのからだを授けられ心身の潜在する能力を生涯かけて抽き出し磨き続けそれを世間のために役立たせその過程で固有の時間が消え無に帰ると言うのが現レベルの科学的な理解と思える。しかし身の丈1mのほどの範囲から始まったこの科学でも、ミクロなナノの科学(極小-10億x10億mの世界)からマクロな宇宙科学(10億の3乗mの世界)までは時空三次元の数式で表現可能だ。その時間すら相対性理論では変化するというが、マクロとミクロの範囲を超えてその二つを一括する可能性の探求では人智の想像を超えた十次元の世界になるとも言われるのは前に拙ブログ(2014/06/21)で述べたとおりだ。
  あることを信じるか否かは全くその個人の選択だ。人生を文字通り無から無へと考えると虚無的で人生の意義は不明だが無を無限と理解すればそれは異なる。暴論だが夫人の信じる「神」と「無(無限)」が言葉は全く違うが本質では同じと仮定すると、その人生は夫人のように「生きているり自分に所与のからだを最大限に高めて活かしキリストを模範に人を愛することに捧げて生き抜く」強い生きる信仰につながると私は思う。こう考えると信仰は死後のことより生きている間こそが重要だと思える。
  生の時間軸が残り少なくなり体部分の衰えを感じるこの頃この感慨が一層強くなる。このブログも私がこの生で授けられた貴重な経験の私にしかアクセスできない記憶の一部を「時空を超えた記録」として異なる時空の人につなぐ意味で書き続けたいと思っている。
 私の愛唱讃美歌:「わが行く道いつ如何に なるべきかはつゆ知らねど 主は御心なし給わん備えたもう主の道を 踏みてゆかん ひと筋に」

 


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大西

メールいただき、ありがとうございます。今後とも、拝見させて頂きます^ ^。
by 大西 (2015-05-25 21:31) 

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