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氷川丸で太平洋横断 【フルブライト留学関連-12-】 [フルブライト留学関連]

氷川丸で太平洋横断 【フルブライト留学関連-12-】
①太平洋とは静かな大きな海洋だと実感
米国政府全額支給留学生の我々28名は1963年7月3日に氷川丸で横浜港からアメリカに向かって出港した。映画のシーンで良く見るような銅鑼が鳴り響き桟橋との紙テープが切れた時には、留学実現の第一歩が始まった感動で胸が一杯だった。
その前年度までは2等船客であったが、フルブライトの予算が少し減り人数を絞るか3等にするかの選択で後者に決まり、そのお陰で私も行けるようになったのかも知れない。
我々の船室はそのような次第でデッキ(甲板)の直下の階にある二段ベッドの部屋だったが、それでもホテルに泊まるなど縁遠かった当時としては快適な部屋だった。最初の数日はすべてが珍しくデッキまで上って大海原の景色に見入っていた。氷川丸は静かな海原の波を切って進み、その周りはぐるりと海原が広がり一日中海以外に船一艘も見えない日があった。そのような時には、たとえ遠方にでも船の煙が見えると一大事だ。その情報が船内で放送されると、多くの人がデッキに出て来て、「どれどれ、どこだ」などとその船が遙か遠くの地平線ならぬ海平線に消えるまで見ていた。
東向きの航路なので、一日が30分単位で短くなる日ができ、船内の放送とニュースで周知される。船内はアルコール類も免税で、日本では高価で飲めなかった洋酒を楽しんでいた仲間は飲む時間が減るといって残念がっていた。そのかわり日付変更線を跨ぐ日は同じ日付が二日続くのも初めての経験で面白かった。
その通過当日,船内放送で「ただいま日付変更線の上を通りつつあります。ご覧になりたい方は直ぐデッキに出て下さい」とアナウンスされると、途端に近くの階段で大勢が上がるドタドタという音がする。一瞬私もその気になったがそんなはずはないと気づいてゆっくり階段を上がって様子をみると、「ン?」「そうか。見えるはずはないナ」と引っかかった人が結構いたので面白かった。だまされるほど皆は退屈していたのだろう。また、その翌日の夕食時に、アメリカ人宣教師の小さい子が、「私は大勢の人に二日続けてハッピバースデイの歌とケーキで祝って貰ったのに歳は一つ増えただけなのよ」と喜んでいるのが可愛かった。そのような我々を乗せ氷川丸はエンジンの音を響かせながらひたすらハワイ目指して東進して行く。
次ぎ述べるように波が荒れた日もあったが、シアトルに着くまで三週間近くもほとんど毎日のようにデッキで360度グルッと海原を見渡していると、地球はとてつもなく大きな球体であり、太平洋とは名前の通り普段は靜かな大洋なのだとつくづく実感させられた。 しかし、いつも太平ではないことを次で述べる様に思い知らされる。
②嵐のなかでの氷川丸の食堂風景
航海が何日か経ったある日、エンジンルームなど船内の見学の後で船長から航海について話を聞いた。50年近く昔の事なので記憶違いもあるかも知れないが大筋で次のようだったと思う。「これまでは静かな海だったが、嵐になると船橋より高い波に遭遇する。船の揺れ方にピッチング(縦揺れ)とローリング(横の回転揺れ)の二つがある。太平洋で嵐に遭うと波の高さはマストくらいもあり、波の間隔も船長くらい長い。船が波と直角になると船の前と後ろが波で支えられることとなり折れる心配があるのでそれは避けたいが、船が波に並行になると横転する恐れがある。そこで波の大きさを見ながら波の方向とある角度を保つように操船する。その結果、船はピッチングとローリングの組み合わさった揺れとなる。」
その話を聞いた後しばらくして、氷川丸は暴風圏内に入るという船内放送があった。私はもともと船酔いには強かったが、すこし揺れ始めたときに船首の近くに行き「いまから上がるぞ、右に傾きながら降りるぞ」とあたかも自分が自分の身体も含めた船全体を動かしているような自己暗示をかけた。それが功を奏したのかは不明だが、揺れが大きくなってもブランコに乗っているようで船酔いはしなかった。外を見るとなるほど船長の言ったとおり波間では船が深い大きな谷底に取り残されているようで怖かった。揺れ始めると同室の人など多くが船酔いで苦しそうになった。
その後の最初に行った食堂では食べに来た人は半数くらいだった。その時に気づいたが椅子の下に鎖があり床と繫いてあり椅子が机から離れていかないようになっていた。次の食事では来ている人数は四分の一くらいとなり、テーブルクロスに水が撒かれてお皿が滑らないようになっていた。その次の食事では今度は何の仕掛けがあるかと半ば楽しみながら行ったら、人はまばらでテーブルの縁をビリヤードのように囲む枠が上げられネジで締め固定されて、お皿が滑り落ちないように工夫されていた。その次の食事には、まさによろめきながら行くと、今度はボーイさんが直接にお皿を手渡ししてくれ、皿の上のものをこぼさずに揺れに合わせて傾けながら食べるのは大変だった。そこまで経験したのは数人しかいなかった。その次の時はさすがの台風も過ぎて元通りの食堂風景に戻り食べる人も毎回次第に増えた。同僚はその間吐くものもなくなるくらいの思いをしたらしく、何年経ってもその時の話をするときは苦しげだった。


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