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2017,10,21 第三の文明渦中の管見【この頃覆うコンピューター75-】 [この頃思うこと]

第三の文明渦中の「管見」【このごろ思うこと-75―】

 今年の115日に鉄鋼協会から1時間半の鉄鋼業における製鐵所生産管理システムの技術的革新に関する講演依頼を受け、その際文献にあることでなく実体験を主に講演して欲しいとの要望を受けた。11年前の引退までに書いた学術論文は実体験でそのReal の検証として関連文献を参照していたので、文字通り管見を主に論じた(そこでは管見の定義を特定の場の場組織・時期に狭い範囲で潜望鏡で管見する如く)と改めて定義した程だ。しかしそれは文献やメディアによる知見ではなくなく実体験の確認の意味だった。最近考えるとその確認は文献やメディアによる仮想lを通しての知見が無視できなくなった程強くなった事実もある

そこで現在の我々はトフラーの言う第3の文明の渦中で管見の意味が変わっているのも気付かない程ない程の渦中にいるのかも知れないと思い始めた。

 トフラーは人類文明の変革を、第1次文明期として採取、狩猟、漁労、牧畜から数万年もかけて農業文明へと変革して来た。それを16501975年頃のわずか400年弱の短期間に西欧で生じた第2次文明期革命を一次動力革命、第二次技術革命で実現した。そして米国で19501960年の10年間の短期間に起こり始めた第三の文明は単なる技術革命でなくコンピュータエレクトロニクス、宇宙学、海洋学、遺伝子学など技術が技術的基盤を提供する新しい文明転換期の渦中に突入した状況で、その新文明への転換は、例えば自動運転のようにコンピュータ自身が主体となりGPSも結合するなどの渦中に放り込まれ予測以上の急速転換に驚き行っているほどだ。

 トフラーの言う新文明への移行期は19501950年、まさにまさにコンピュータの揺籃期でその終わり頃の2年間に私は幸運にも米国留学中で日本との十年の差は仮想ではなく現実として管見でき、鉄鋼産業での応用では追い越せたが情報産業全体では今に到るも取り戻せずに居る。それに関連し第三の文明期に移った後の管見の意味もVertualReal体験の意味で変わりつつあると思える。私はこれまでの論文関連では第一次文明時代には人類は生まれた土地の周辺での文字通り身辺のRealな管見のみを取り、文献で得た知識は学術論文のReal性の関連補強の立場を取った。しかし第二期文明期の今、文献やTVで現実と見なす可能があればそれも管見とみなすと言う管見の意味の急速な変化の渦中にいるとも思われる。つまり文献やメディアは身辺で簡単に知り得る意味から実体験と見なすことも可能な事と受け入れざるを得ない状況にある(そのReal性の保証がFaked情報やFaked論文の問題になっている。したがってReal性からは数年前以上に自分の体験、つまり狭義の管見にはFakedの疑いがないだけにReal体験にだけ頼るのが賢明なのだろう。ましてや自動車の自動運転のようにコンピュータとGPSが結合し自分が阻害されるほどの空間の出現などの状況が急進すると益々Realが重要で可能な限りFakeVertualな可能性の入り込めない狭義の管見が重要となると思える。自分での経験のみ確かで安易に入手できる少なくも文献などによる知見は信じない立場を取ることが従来以上に重要だと思える。そうすればfakedな場とは無縁に居れる。。

 

 

 


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2017,09,19 Eurasian Plateの東端と西端【この頃思うこと-74-】  日本とアイスランドは地学上では火山帯上の島で、同じEurasian Plate の東端と西端がそれぞれ海に沈む内側にあり、後者はあまり日本では知られないが北端が北極圏に接し、北海道と四国をあわせた程の面積に人口40万弱と言う。  2006年に74歳直前で退職し体力もまだあり余暇をもてる身になったので、すぐに九州ドライブ1周した後、米国のバス周遊ツアーで8月初め2週間のアイスランド周遊に参加した。白夜の季節で朝の2時 [この頃思うこと]

2017,09,19,7Eurasian Plateの東端と西端【この頃思うこと-74-】

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 当ブログは30年ほど昔に1時間半の講義の中間に眠気覚ましとして始めた会社時代の時空を超えたはなしに始まる駄文だが300編ほど溜まった。このブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリーをクリックするとそれ毎にも読める ************************************************************************************ 

 日本とアイスランドは地学上では火山帯上の島で、同じEurasian Plate の東端と西端がそれぞれ海に沈む内側にあり、後者はあまり日本では知られないが北端が北極圏に接し、北海道と四国をあわせた程の面積に人口40万弱と言う。

 2006年に74歳直前で退職し体力もまだあり余暇をもてる身になったので、すぐに九州ドライブ1周した後、米国のバス周遊ツアーで8月初め2週間のアイスランド周遊に参加した。白夜の季節で朝の2時くらいから夜中近くまで明るかった。小型バスは首都レイキャビックを起点に時計回りで毎日8時過ぎから午後6時頃まで移動し見物をした。島民の多くが海岸近くの漁村や山寄りの放牧場、散在する観光地のホテルなどに住んでいる。昔の一時期には5割近くあった森林が伐採され(植物の生長が10倍近く遅いのに気付かず)いまは数パーセント残る程度で、至る所が茶褐色の富士山の頂上の様な溶岩むき出しの急な山や丘が連なる。そこでは多くの瀧や地獄谷を彷彿させる水蒸気の吹き上げ、池や湖水、その一つでヤブ蚊の大群に息を止め、氷河と隣接した活火山、巨大な人工の温泉プールなど、毎日適度な観光を白夜のおかげで朝8時出発し8キロ近く山や急な丘を歩かされ夕方6時近くまで楽しんだ。2週間の観光をこの短文で紹介するのは無理なのでこれで終わる。

 しかし、同国は日本と同じPlate上にありながらその両者間のあまりにも大きな違いには、短期間ながらの滞在で認識を改め驚く以外はなかった。日本は人口も圧倒的に多いし、国の7割ほどは自然豊かな森林だが、2割にも満たない平地はほとんどが舗装された道路や人工物に覆われ、そうかと思えば活火山や森林渓谷も諸所にあり、何よりも四季に恵まれ、千数百年の歴史と独特の文化がある。長年そこに住んでいて同島との比較で改めてそれらに気付かされる。

 以前【ことばの話】でも書いたがグループは英・米・豪・NZの英語圏に日・伯の6か国の夫婦と同国のドライバー兼ガイドの13人で、毎日の夕食後数時間はそれぞれの訛りのある英語で話すが皆話題も豊富でお国自慢も交え、今日は自分たちがと話を競い合っての会話は楽しめた。私達もそれに割り込むのに精一杯だったがガイドの同国に関する説明は特に興味深かった。中でも同国が純粋な同国語(ケルト語の一種)保持に国の制度として苦労し、外来の単語は英語といえども検閲があり同国の語彙に翻訳し外来語のままでは使えないとか。日本語では本来読み方は一つの表意文字の漢字を同意のヤマトことばのフリカナに遣い始めただけにいまや外来語、とくに英単語のカナ表現で日本でしか通用しない語彙語に溢れているのとは好対象だ。最近のテレビ(これもその一つだが)でその氾濫に、ふと同国のことが頭に浮かび、その連想でこの標題の駄文に発展した次第だ。


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2017,07,18 宗教について【この頃思うこと-69-】 [この頃思うこと]

下記標題の文は同日付で一旦アップしたが読者からキリスト教以外の教えを曲解しているとの指摘もあり二日後に一応は抹消した。しかし、その可能性もあるが所詮千数百字で自分の宗教観を述べるにはどう書き直しても難しいく敢えて若干の語句訂正でで連番もそのままここに再度アップする。      

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2017,07,18 宗教について【この頃思うこと-69-】

世の中一般に宗教は縁遠くなったようだ。それは、50年程昔には短命の早婚で多くは臨終を自宅で迎えたが、いまは長寿・晩婚・親子別所帯の豊かで多忙な生活に紛れ内省の機会も少なく、宗教は「非科学的で胡散臭く、叶わぬときの神頼み的」になっているからかも知れない。一方、鬱で悩む人が多いのも事実だ。

 幼児洗礼の私は戦中も教会に在籍したが、戦後の中・高校は科学一辺倒の無宗教だった。大学の内燃機関の授業で黒板一杯「色即是空」と大書した1時間の話に驚き人生を考えた。教会門前で幾度も逡巡の末、牧師への「奇跡話は信じられない」との質問に「まず信じることで、奇跡話は次第に意味が分かってくる」との答。一大決心で堅信(自身の信仰表示)を受けた。その後50年の現役生活の間、仏教の言う四苦八苦で何度も躓き苦しい時期もあったが、後半19年はキリスト教系の大学に移り信仰を保てけた。その間に棚上げの奇跡問題はどうなったのか

日曜学校の紙芝居で習った旧約聖書の1週間の天地創造、誘惑で知恵と原罪を得る話、など宗教は人類何万年もの間少数の賢人が、迷信のみの大衆にその時代で理解可能な具体的な例え話をしてきたと思い始めた。日本では一神教に「神」と被創造の「八百万の神」の「神」と同じ文字を用いたのが混乱の源泉とは思うが、被造物の自然や先祖を尊崇するのは日本的で良い風習だと思う。仏教には日本人の常識程度の知識しかないが釈迦は死後のための現世でなく現世を大事に生き抜くことと説いたのをこの5月3日のブログで書いた。

 キリスト教にはニケア信条(信教)があり、それにはキリストの生誕と死後三日目の肉体の復活の奇跡が含まれる。現実としては十字架後に逃亡した弟子達が三日目に改心し伝道を始め、2000年経ったいまも何億人もの信者の心に生きている(精神的な復活)のは事実である。誕生の奇跡は神格性を信じる以上は信じるしかない。「死後の蘇りと来世の命」に関しては信条では「待ち望みます」と書かれている。したがって私はこの信条を全て受け入れる信者の端くれだと思っている。

 聖書の一字一句が重要と進化論も否定する原理主義者がいる一方、新約聖書の学問的研究でキリスト自体の言葉と弟子達の見解を識別研究する信者も米国には存在する。勝手な解釈だがキリスト没後の数百年でその神格化のために信者達が書き加えた(奇跡物語)が結果的には信仰を妨げているかにも思えるほどだ。信仰は個人の問題で他の宗教には寛容とは思うが、イスラム教はモハメド当時の食べ物や風習を、技術や環境が当時と大きく変わった今も絶対視する点で多くの問題を孕んでいるかに私には思える。また、死は仏陀が使命を果たし老境で、キリストが若い伝道使命の途中だった違いにも最近気付いた。これまでの西欧社会の発展に寄与した科学は、急速に進み今ではビッグバン理論でマクロな宇宙と超ミクロとの世界を統一できる多次元の新理論の研究が進行中だが未知なことが多い。

 私も現役の70歳半ばまではともかく、80歳を過ぎる頃には、与えられた身体を維持するだけで大仕事になり、自分の人生を振り返って、今まで健康に過ごせた、宇宙37億年に比べるとホンの一瞬にもならない、しかしこの長い人生で与えられ使命の一端を果たせたことも、共有された多くの人々に感謝する気持ちで、無(限)から無(限)に帰るのが必然だと思うようになっている。


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2017,09,05 アメリカ第一主義考【この頃思うこと-73-】 [この頃思うこと]

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2017,09,05 アメリカ第一主義考【この頃思うこと-73-】

 この言葉は、鉄鋼・石炭などで栄えたRUST (錆付いた)地帯 を昔の繁栄に戻すと言うトランプ氏の大統領選挙公約の人気とりアピール実現に基いている。

 米国では鉄鋼業が20世紀初頭からの寡占体制で労働者が労働貴族と自賛するほど格段の繁栄で1960頃をピークに粗鋼年産1.2億トン前後で推移、留学中59年の108日に及ぶ大規模ストで労働側の圧勝、その間の生産不足分補給に日本など海外鉄鋼の大量輸入で鉄鋼ユーザーがその良質安価を発見、米鉄鋼業界はその間も体質改善なしで65年頃まで安逸をむさぼる。70年頃気付いたときは既に遅く、突如米国鉄鋼各社はRUST地帯(シカゴから東の北米)製鐵所を廃止し雇用の労働貴族を退職金・新職場紹介もなく一方的に解雇し失業の荒波に放り出す。の時40歳だった白人がいま80歳代で懐旧の念に駆られている。

また、キング牧師の働きで人種差別論議が盛んとなり68年に牧師が暗殺されノーベル賞受賞で世論が盛り上がり、68年成立の公民権法によりある日突如に公然だった白人優先が禁句となり法的には人種差別がなくなったが、これもその頃40歳だった白人はいま80歳代でその受けた教育・環境から心情的には納得のいかない白人も結構いると思われる。それ以前の留学で実体験した60年頃、人種は「白人(最優秀)・黄色人(準白人)・黒人(知的低)」3種類の旧学説が公然で、ホテル・レストランの予約で再々RaceCaucasian Mongolian Negroの一つを選ばされた。いまにして思えば同じ部屋に黒人を入れないためだったと推測される。そう言えば米国の教会は勿論大学でもほとんど白人と準白人のみで黒人は専用のそれらがあったのには心底驚いたがすぐにそれにも慣れた。

 日本は終戦と進駐軍の占領政策で一挙に価値観が逆転、民主主義、人権尊重、平等が欧米の文化と多くの日本人が教育されて誤解していたので、留学で米国の公然人種差別に驚いた次第だ。また鉄鋼業は戦後からの米国流管理手法を懸命に学びそれを基に独自の設備と管理技術を開発し72年までに米国と同規模の粗鋼年産1.3億トンまで20倍近く急成長を遂げた。その間は労働者の給与ベースと情報技術先導は他産業に比し際立っていた。70年に入っての米国鉄鋼業の突然の閉鎖を反面教師とする日本独自の対処と努力で、地域特性も配慮し設備規模と要員の順次縮小に着手、余剰となった労働者は関連会社への(給与差額援助付き)配転、特定地域では高炉の停止など昔日王者の面影こそないが加えて6社の3社体制への合併で、何とか高品質と低コストと順当な利益をいまも堅持している。RUST地帯の再興はこれに負けぬ品質コストが必要となるがそれが可能か?

 この様に日米の当時の社会状況と鉄鋼会の踏んだ対処の違い、それに該当時期に教え込まれた白人主義のRust地帯で古き良き時代を過ごしその後貧困にあえいだ高齢の白人達にとってトランプの公約に飛びつくのは心情的に分かる気がするし、同時に頼朝の前で静御前が「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな」と舞った故事にまつまでもなく歴史上の昔に戻すことの難しさに目覚める日もそう遠くない様に思える。

 


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2917,08,26 甲子園高校野球雑感【この頃思うこと-72-】 [この頃思うこと]

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2917,08,26 甲子園高校野球雑感【この頃思うこと-72-】

 

 今年夏の甲子園野球全国大会では花咲徳栄高校の優勝で終わり、閉会式も見たがその間いろいろな雑感が浮かんだ。

 

 まずは全国の4000校弱の高校の中から地域代表を次々と勝ち抜いて甲子園でトップの座に着いた同校の実力と栄冠に拍手を、が最初の感じだ。野球は投手陣が優れ、打陣も強打で、エラーが少ないことが強い条件だろうが、そのときの自軍と対戦相手のちょっとしたことで勝敗が分かれるのも見る方にとっては野球の醍醐味だ。幸運も実力の一つとは言うが同校はその意味でも両方を兼ね備えていると思う。閉会式は若者らしいキビキビした動作、とくに状況に応じた帽子の着脱を見て、終戦後再開され、当時から引き継がれた大会の伝統を感じとった。と言うのも、最近は女性の着帽は少なくなり、男性は室内外それに食事中さえも着帽が普通に見られる風景なのでの、以前は男性の着帽は屋外に限られ、女性は正式には室内でも着帽するのが礼儀だったと感じることそれ自体が、いまは古臭く異常なのかも知れないと思えるからだ。 

 

  また、私は甲子園の西方一駅の今津小学校(国民学校と言った)4・5年の頃に毎日阪神電車で乗り換えのため甲子園球場の外観は見ていたが、球場内には、いま思えば軍事関係だったのだろうか、近寄りもできなかったような記憶がある。球場内に入ったのは20年くらい前の阪神巨人戦で応援した阪神が負けたときが最初だ。

 

 今津の小学校と言えば、3角の隅が塁の(狭いので2塁なしの)柔らかい軟式の球(コンニャク玉と言っていた)を腕と拳骨(バットの代わりに)で叩いて遊んだが、それは野球の変形だったのだろう。転校する前にいた九州では騎馬戦とか軍艦ごっことはやったがそんな野球に類する遊びは全く知らなかった。

 

 甲子園の駅では良くアメリカ兵の捕虜グループを見たが、決して興味深く見つめたりましてや指先で指すなどするべきではないと強く注意されていたのに、最近のトランプ大統領の記者連への非難めいた指差しには悲しい思いがするなども思い出してしまった。      

 私は高校時代の大車輪の練習などで指の付根にできるタコを十年以上経っても削っていたが、会社で隣席の先輩で投手をしていた人の指の先のタコを同じように削っているのを見て、削る場所は違え、お互いにそれは知らなかったと笑ったことも思い出された。

  何はともあれ、野球がこんなに全国の人を熱狂させるとは平和の有り難さも実感させられる。                 


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2017,08,21 天然素材と人工素材 【この頃思うこと-71-】 [この頃思うこと]

2017,08,21 天然素材と人工素材 【この頃思うこと-71-】

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 科学、とくに化学の進展に伴い人工素材が急増した。その理由は「資源の枯渇」:鼈甲、象牙、動物の毛など資源保護の問題。「健康」:アスベスト防火壁など。「価格競争」:化学繊維、「代用品」の海綿、歯ブラシなどなど多様だ。 代用品と言えば我々世代では「米」に替わるいも、カボチャ、薩摩芋のつる、ヨモギ、落花生の絞りかすなど悪印象しかない。鉄も天然資源の加工物で早くからアルミ、カーボン系新素材などへの代替が言われたが鉄の安価・大量生産などで当面は将来とも生き残りそうだ。

 退職して10年になるがその直後に思い出の地を長期間の旅行や住みついて見た。そのときポルトガルの有名なコルク林とその樹の皮を剥いでコルク栓の材料としているところを実際に見ることができた。それは葡萄酒の瓶詰めには欠かせないものだったが、最近は安価な輸入葡萄酒にはゴム類やネジ栓が多くコルク栓は高級酒の代名詞のようだ。

 スレート葺きの屋根も50年ほど前は高級洋館にはつきものの憧れだった。そのときのドライブ旅行でWalesの山奥に滞在中にふとSlateと言う寒村に立ち寄ると、観光用の場所で老人が面積がスレートのサイズで高さが50cmほどの石の表面を金槌でトンと叩くと適度な厚さでその表面が剥がれる。叩く度にスレート板が1枚ずつできる。厚さなどのコントロールには熟練がいるだろう。その老人の話では、英国の産業革命時の労働者の家作でスレートが大流行しそれがNew York に伝わり、そこでもSlate材として大評判。村はその生産に追われたたが、類似の石が世界中のあちこちで見付かり、その村での繁盛は終わりいまは当老人の観光用生産のみという。そのときはWEBで調べるとその村の名もあったがいま調べると何の痕跡もなく忘れ去れれている。日本はまだ瓦葺きが主流だが震災復興後では耐震性、保守も含めたコストなどから新素材に変わって行くだろう。

 ナノ繊維など強度や高加工度など鉄より遙かに優れているが、安価で大量生産技術ではしばらくは鉄に太刀打ちはできないだろうか?。しかし人工素材の潜在力はいまの我々の持つ悪い印象の代替品でなく、優れた素材として想像を遙かに絶し普及して行くことだろう。勿論それには私の仕事だった、そしていまは想像も付かないコンピュータの利用なしでは考えられない。

 


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コンピュータと私【この頃思うこと-70-'d】 [この頃思うこと]

 

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コンピュータと私【この頃思うこと-70-】

 この題でいつもの通り1400字以内にまとめようと思ったがその長さではとても無理なことと、その内容の幾つかは既にブログで紹介済みなので、少し長くなるが全部を以下のようにまとめた。目次を作っておいたので時間があるときにその部分を見ていただければ幸いです。

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   「PCS-機械計算-電子計算機-コンピュータ-パソコン」の流れ

まえがき

 私個人は縁あってコンピュータ誕生の地米国でその利用黎明期だった1950年代の終わりから、その革新を追いながらずっとその利用に携わった数少ない一人であることに、自分の国内外での経験を書いたブログのあちこちと出て来ることで認識を新にした。これらの場にいたものの責任として書き留めたものにこの際若干の手を加え一連の流れでまとめることにした。

 

目      次

1.八幡製鐵でのPCSとの出会い

2.アメリカでのPCS操作と真空管式のデジタル型電子計算機の利用

3.八幡製鐵所での1961年頃の電子計算機のオペレーション

 

 以下の文はこのブログをScroll down して左側の任意のマイカテゴリの 1960年代の計算機導入初期の頃 を見ていただくと出てくる。

5.計算機導入初期の頃の職場での茶目っ気

6.計算機導入初期の頃の職場での茶目っ気-続き-

7.漢字入力で思うこと【この頃思うこと-27-】

8.キーボードと英文タイプライタ【この頃思うこと-28-】

 

1 八幡製鐵でのPCSとの出会い

 機械工学を学び、就職難の時期に幸運にも八幡製鐵に入社できたのは1956年だった。同期生はそれぞれ半年間、各工場での現場作業や主要な事務業務を研修させて貰った。米国製のデータ処理機械PCS(punched Card System)の存在をこの時に知った。日本では製薬会社に続いて事務合理化の目的で1952年に導入されたという。手の平倍大のカードを百枚くらいを静電気防止にさばき、法人には高すぎる機械の背丈補足の台上でPCS上に並べ目にも留まらぬ速さでカード上の穿孔位置で英数字を読み取り計算する。当時約3万6千人いた従業員の給与や賃金を現場事務員の算盤に代わり300人弱のPCS要員で正確に計算し印刷まですると聞き驚いた記憶がある。10月の本配属で希望通り自動制御担当箇所に行けたが、事務系の友人は俗称「アイビーエム」の機械計算課に決まり彼が若い女性パンチャーが大勢いるとも言っていた。

 

2 アメリカでのPCS操作と真空管式のデジタル型電子計算機の利用

 入社3年目の1968年夏に全額米国政府支給の留学生として米国の大学院に入学した。渡航船上で日本電気からの友人がデジタル型コンピュータに行くのだと聞き、アナログ型意外にデジタル型もあると初めて知った。Case工大には、当時の日本にはまだ1台も存在しなかった巨大なドームに無数の真空管があるUNIVCⅡや、技術計算用の比較的小型のIBM650型があるのに目を見張った。早速IBM650の技術計算プログラミングを受講した。まずはPCS機器の構成で始まりそのプログラミングに当たるwiring(ボード配線)の実習で「名前で英文、生年月日で数字をカードに穿孔し読み込ませてプリントする、でき次第解散」だった。皆はJohn Smith とか短くてすぐ済むのにYoshisuke Inoueと長いスペルに「子供は短い名だ!」と恨めしく思った記憶がある。修士論文には勿論IBM650を使った数式モデルで加熱炉の最適化を求めた。その翌1961年春に日本初の大型計算機が八幡に入荷予定でそのプログラミングを学び帰国との社命で、卒業後2週間のIBM社の事務計算講習会に通った。最初の数時間は技術計算と違いバッチ処理のデータを順序よく揃えるためのsortmergeの必要性の理解に一日目は相当苦労した。簡単な給与計算の実習もあった。ランダム処理しか必要ない現在ではバッチ処理の言葉を聞くこともない。

 その他、企業での応用が始まったORを世界的な名著「Operation Research」の著者直々のの講義をとり、その自由課題で「倉庫における最適保有量」を設定し、自学した、まだ発表直後のコンピュータ使用前提のダイナミック・プロがラミングの技法を試みみた。これは「プログラミング」コースの課題も兼ねさせた。クリスマス休み前でIBM650利用は一時間ほど待ち数分の計算で終わる学生が列をなしていた。ミスがないように何回もチェックしPCSカードにパンチして読み込ませた。理屈では在庫初日の解の計算に全体の半分以上の時間を要し、その解で次の日の解が出て最後の月末分は一秒もかからない筈だった。"Cross Your Fingers"(旨く行きますように)と唱えながらデータを読み込ませた。IBM360のパネル上はランプが点滅する。10分以上経っても答えのカードがでない。列をなす学生が「ループしているぞ」と催促する。「解は幾つ出るのだ?」「30」「そんなには待てない。」「最初の解は時間がかかるが後は短くなる。」ループでないことを念じやりとりしている間に15分くらいで最初の解のカードが出た。皆あきらめ顔で20分強待ってくれた。帰国して翌年IBM7070で解いたら2分ほどで済んだのには驚いた。

 

3.八幡製鐵所での1961年頃の電子計算機のオペレーション

1.1 IBM7070の導入」

 これを書いているパソコンは、言うまでもなくリアルタイム処理で、内部メモリーも数十GBあって、インターネットに接続すれば瞬時に世界中にがつながる。これをたかだか50年昔の電子計算機と比べると、蒸気機関車と新幹線よりもっと差が大きいと思える。それで連想すると昔のバッチ時代の電算機のオペレーションは、機関車の石炭投入作業の想像以上に、いまの人には想像できないかも知れない。するとそれを記録に留めておくのも、少しは意味があるかも知れないと思いそれに関連することも含めた書くことにした。

 電子計算機が日本企業に輸入され始めたのは、アメリカでの設置に遅れること2年ほどの1961年からで、同年に八幡製鐵所で設置されたIBM7070は世界最新鋭(トランジスター使用)のバッチ処理方式で、そのために作られた当時は珍しい空調付きの大きな建物の一階を占拠する大きさだった。それは内部メモリーが10kワード(1ワード数字10桁)、10桁の加算速度が10マイクロ秒といった代物だった。パソコン時代で育った人には「バッチ処理」すらも滅多に目にしない言葉と思われるので解説すると、当時は内部メモリーが小さいため、データは高さ2m、60cm角くらいの装置の中で磁気テープがクルクルと回る外部メモリーとの間でデータをやりとりする必要があった。そのため事務用データは、まずある程度にまとめて(batch)、それをソート(指定の順序通り揃える)やマージ(複数のデータを指定の順序通りにまとめる)をおこない、それからその順序に従ってデータを磁気テープとの間でやりとりしながら(その度にテープがクルクル回る)処理する必要があった。 しかも、そのような幾つかのバッチに分けた要望項目にしたがって順序並び替えた結果を幾つかのテープ別にアウトプットした(書き込んだ)あと、それらのテープとの間でバッチ処理(一括処理)せざるを得ず、それすら驚きだったので、オンラインですぐ処理結果を出すなどとは想像を絶していた。いまの机上パソコンでは、データとそれらのソフトが内蔵されているので、画面上のクリック一つで瞬時に望みの項目順序でソート、マージできるなどとはその頃を知っている私には夢のようだ。

前置きはそれくらいにして、当時のオペレーション作業の一端を振り返ってみよう。私は資質的にプログラマーには自他共に認めるほど不向きと思うが、当時では私は数少ないプログラム実務経験者という理由で給与計算のプログラマーを命じられた。というのも当時の日本には研究用デジタル型の小型機が数台あったくらいで事務用は皆無であり、私は前年夏にアメリカ留学で修士論文に電算機を使ったとの理由でその翌春設置予定の電算機要員として事務用のプログラム研修会にも参加して帰ったからだ。

当時の給与計算は製鐵所4万人近くの給与(月給)・賃金(日給)を300名くらいがPCS(パンチカードシステムといって電算機の前身の情報処理機械)を使い毎月一ヶ月弱をかけて計算していた。給与計算は20近くのバッチ処理に分かれていて最初の「異動処理」という主幹部分を担当した。機械科卒のエンジニアとして入社した身で給与計算などと初めてのことで苦労も多かったが、同僚の大多数が20歳代の若い職場で、後で振り返ると31年間のサラリーマン生活のなかで最も茶目っ気の発揮できた楽しめた職場でもあった。

大変でもあったが、想い出は古きよきもの残るというがそれらを幾つか書き留めて見る。

  (blog  inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302341260-1 他

 

 


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80歳からの私なりの健康法【この頃思うこと-68-】 [この頃思うこと]

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80歳からの私なりの健康法【この頃思うこと-68-】

 85歳も数ヶ月を過ぎたいまは社会奉仕どころか消費一方で気がひける毎日だが、せめて健康寿命(介護保健不使用)であるのと、74歳直前まで50年間を現役で平均より10年ほど長く働いたことで許して戴きたいと思っている(勤労が善で消費は悪と言う幼時の価値観の影響か)。それなら80歳以前から始めてみようと思う人が居られれば参考の一助にでもなれば望外の喜びと、恥ずかしながら、私生活の一部を暴露することにした。

 父母も含め多くの80歳超の人に接し、その気持ちを察したつもりだったが、自分の身になって初めてそれを実感している。幸運にもこれまでは、50歳頃からの腰痛、70歳を超えて働いた運動不足が原因の糖尿病・前立腺肥大など以外は自分の身体を意識することはなかった。しかし脊椎管狭窄症の手術で平常の腰痛は解消したものの連続歩行が500mほどしかできず、また益々姿勢が悪くなり、80歳からヨガ教室に週一回通い始めた。
 ヨガでは末梢の足の指から始まり驚くほど多数(
206個くらいあるようだ)の腰・上半身など全身各部の関節を捩る。それで初めて左足の指が下方に折れ曲がり(HAMMER TOEと言うらしい)爪の代わりに下部皮膚が硬いこと、背骨が正面から見て逆S地肩に曲がり左肩が下がっていることなどに初めて気付かされた。

 教室での基礎を自分でやれるまでにひと月以上を要したが朝夕ひたすらいままでそれを実施し続けた。すると1年2か月ほど経ったら連続歩行が無制限にでき姿勢も良くなり家での朝夕20分弱のヨガが楽しみになって身体の柔軟度ももとに戻った。足の指も毎日ケアし続けたら4年経つ頃から上方に戻り爪も普通に生え揃ったのには我ながら驚いている。手の人差し指も第一関節が膨らんでいるのに気付きそのケアも始め、今はあまり目立たない程度に戻った。このブログの-65-と-58-でホメオスタシスのことを書いたが人間の身体はとても精巧にできている。
 西洋医学は薬効による対症療法で即効性はあるが完治を保証するわけではない。東洋医学は自己治癒力増進なので遅効性で治癒力改善の効果が出るまでは年単位と長期間を要しその間完治を信じて辛抱強い持続が肝要なようだ。生来怠け者の私には日常生活に組み込むことで継続につなげた。朝は新聞やテレビを見ながら、夜は眠る前の着替え時、風呂の中では足の指のケア・深呼吸数回・腹ばいに入り背を伸ばす。散歩の途中(パソコン作業の後も)で眼球を上下・左右・斜め上・下に動かし焦点を遠近に数回あわせる(これで老視・近視の眼鏡不要になった)、朝食事前に日に一度臀部を踵まで
10回は落とし立ち上がる、などなど。以前からの継続もあるが(歯のケアは昔からで、ほとんどが治療済みだが1本も欠けていない)医者による科学的文献説明によりこれらの効果を信じて単純愚直な継続が私の80歳以降の健康法になっている。天与の寿命には逆らえないだろうが個々の効果は上記のように自分でも信じがたいほどだ。早く気付いて継続していれば寿命も延び糖尿や腰痛にもならずに済んだかも知れないと思うこの頃だ。

 


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