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2017,06,25 ホメオスタシス再考【この頃思うこと-66-】 [この頃思うこと]

2017,06,25 ホメオスタシス再考【この頃思うこと-66-】

60年以上前に「機器設計では寿命想定が肝要で、寿命が来て部品だけ動いても仕方がない」と講義で教わった。家電寿命も20年くらいはあったがいまは半減し、部品の修理より新型機種へ換える方針のようだ。我が家の冷蔵庫・洗濯機・掃除器も10年で買い換えたが、その間の追加新機能と高性能化に驚いている。でも自分の身体ではそうは行かない。

201611月1日に急遽入院し医師の「膵臓癌の末期で年齢を考え手術はしないし抗がん剤も使いません」との言に、自分でも不思議なほど冷静に「分かりました」と答えていた。2年前の誕生日頃以来「折角授かった身体だから長生きは望むが死は必然」と思っていたからだろう。(http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2015-05-02)

先が長くないと思い、例年恒例の大学同級会と、それに合わせ東京で予定の高校クラス会(20人弱)、新日鐵後輩との会(十数人)への6日と7日の出席希望を強く医師に述べたら「東京で入院を一晩外泊にして、肝臓からの応急の管を替える手術は帰院後にする」と許可され家内同伴で上京し16日には無事退院できた。退院後は体力減退を感じたが家での日課を徐々に始め1週間ほどで体力はある程度戻った。そう分かると、念願はそれまで半年間準備してきた、翌2017116日の鉄鋼協会での1時間半の講演会を無事済ますことだった。するとまた欲が出て、同月26日の八幡での職場関連と佐世保での旧制中学での会合にも出たくなり、医者の同意と緊急時紹介状持参でその双方と旧友の墓参りに小値賀島までも行けた。以降12月には君津製鐵所の会も出席し、正月を迎え念願の16日の講演会も何とか役は果たせた(もう一人の講演者はその朝急遽入院され亡くなられた由)。それ以降は、家での日課の繰り返しで85歳の誕生日も迎え、疲労感は感じるが家内に食事ほかの多大な負担を掛け申し訳なく感謝しながら何とか毎日が過ごせている。

その間の所感は私のブログと、とくにホメオスタシスの本文は(*)にあり、ここでは、その本文関連部分を要約すると、人の身体は全く巧妙に自主性のある部分からなり、私の場合は膵臓部分だけはその障害で食事のエネルギー化低下を来しているが、それ以外の部分例えば「懸垂3回」「平行棒的な胸筋10回」など、体重減のせいか楽にでき「歩行の筋肉」もまだ4000歩分は充分にある。これらは毎日少し実行すれば持続するが2日もしないと退化する。つまり、患部以外は正常で自分で病気だと思い込んでサボらない限りその機能が現状程度の維持は可能と自身で実験できた。
(*)詳細は 
http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2017-03-20クリック【-59-】)

80歳で始めたヨガを自分なりにアレンジして朝晩20分ほど行うと血行が良くなり自己免疫性が向上する結果だろうが、ここまで進行しているのだから患部の完治は無理だろう。食事での摂取カロリーが減り、患部以外の他部分も自然に弱るかも知れないが、それまでは自然治癒力があるとして平静な毎日を過ごすつもりだ(病気は気の病として)。しかし毎月1回に痛み止めをもらいに行く担当の医師にはただ診るだけで治癒のしようもなく気持ちの上で負担だろうと申し訳なく思う。

 


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日本語変革の渦中?【言葉のはなし-11-】 [言葉のはなし]

 日本語変革の渦中?【ことばの話-11-】

 

 ことばには興味があるものの全くの素人で、以下は常識の範囲内での私見に過ぎないが、日本語はいま3回目の大変革中の渦中にあるように思えてならない。 

 1回目は6世紀頃の隋・唐からの漢字の習得時期で、漢字は本来表音・表意文字なのに、まずは万葉かなに見られる通りヤマトと言葉の発音記号として用いられ、それが日本独自の表音文字「ひらがな」や「カタカナ」に発展した。同時に漢字本来の中国での表意記号の使い方に、日本流の読み方の「漢音読み」や「呉音読み」と日本読み(例:正義・正月・正しい)が加わり、その時期に急速に日本語の語彙が増え表現方法が多様化したように思われる。 

 ⒉回目の変革は明治になっての言文一致だろう。それまでの候文的なものから話ことばで書くことになったのは大きな変革だったろう。それも口語体と文語体があるのだから面倒だ。これも過去100年強の間に起こった。 

 3回目の変革は、これこそ全くの私見だが、この50年ほどの期間だと思う。その間に日本語としての英語の仮名書き単語が急増した。会社の部課名には日本語のみだったのだがカタカナ名が出現したのは1960年以降で、いまでは会社名も英語のままも茶飯事だ。その正反対に異国の単語を一切拒否し必要ならばそれを自国の単語語彙で置き換える(例えば飛行機なら「空飛ぶからくり」の類)のは実際に訪問して聞きWEBでも確かめたアイスランドだ。彼の国のことばは中世から全く変化していないと言う。 

 また、新聞では文意伝達の効率性から敬語は文末の動詞のみとなり、それも省かれつつある。いまの新聞では「天皇陛下は東北地方に出かけた」となるが戦中までは「畏れ多くも今上天皇陛下におかせられては東北地方に行幸あらせられた」と書かれただろう。これだと確かに長さ辺りの情報量は半減する。50年でもう「おそれ多く」などは死語に近くなった。最近までは文章途中の敬語は省きそれでも文末は「されている」の類で終わっていたのだが、最近はそれも「した」になる場合がある。その意味ではTVのニュースの方がまだ忠実にそのルールだけは守っているようだがそれでも若干の違和感はある。 

 それほど極端ではないが、昨年入院したおりの看護師さん達の話しかけ方は大別して二種類と感じた。一つは努めて年長者への配慮として敬語らしく「気分はどうですか」と言う人、もう一つは他人行儀でなく親しみを込めようと「気分はどう?大丈夫?」と敢えて友人らしく言うタイプ(タイプも英語からの語彙!)だ。どちらも私の気持ちを案じての言葉で、後者は気取らずにと言った気持ちが滲む。私はどちらへも「有り難うございます」とお世話になっている人への敬語が自然に出てくる。日本語では男女・老若の差があり敬語に加えて卑下語があった。数十年前までは「父が行った」と言ったものだが、いまでは「お父さんが行かれました」とTVで観て異様に思う。 

 これらのことは日頃あまり気付かないが、それは自分がその渦中にあるからだろうか。

 

 

 


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カエサル ルビコン以前 を読んで【この頃思うこと-65-】 [この頃思うこと]

カエサル ルビコン以前 を読んで【この頃思うこと-65-】

 友人から塩野七生著「ユリウス・カエサル ルビコン以前(上・中・下)」が送って来た。カエサル(英語読みシーザー)のことは多くの本で読んだがその圧巻は本人が書いた「ガリア戦記」だった。昔読んだので詳細は忘れたが、戦略や戦術の天才で橋や攻撃の櫓作りなど工兵・騎兵の使い方に驚いた記憶が残っている。私は本を読み始めると途中で止められなくなるので、今回も数日は躊躇したが、案の定3日間は通読以外に何もできなかった。

 その読書感は、著者の広範囲な研究に基づく博識と歴史家としての優れた洞察力・記述力よるのだろうが、その幼年・青年期のことがわかり、さらに上記のカエサルへの印象に加え今回はとくに三つの点に興味を覚えた。

一つは当然の見解ながらカエサルは戦略・戦術家は言うに及ばず、魅力ある人物で信頼される偉大な指揮官であり、しかも遠いローマでの情報交換と適切なタイミングを逸さない政治家としても天才であったという点である。二つ目はそれから2000年は経ているのだが、いまも人間性そのものはその当時からあまり変わらず、その集合社会である当時の政治的な動きはいまでも通じそうなこと。そして三つ目は、人間が使える技術に関しては過去200年ほどの間に蒸気機関・電力・原子力などのエネルギー源とその使用が進歩し、それも私が経験したこの50年ほどの間に想像もつかないほど加速度的に進歩していることである。とくに情報処理や伝達に関してはこの20年ほど前にはパソコンインターネットの出現などで想像以上に急速な変化を遂げていることだ。

つまり、それらの諸技術の急速・大幅な進展に比べ、私達の人間性やそれに基づく政治が、2000年前とあまり変わっていないことの印象に圧倒された。私のHPにも紹介しているが、1965年の米国のカルフォルニア大学バークレイ校で受けたExecutive Program後ほど世界的に有名になる当時の最先端の行動科学をいまも通用する実例を挙げて論じた二人の若い学者によるMiddle Managementコースで採った講義録を読んでも、人間性と言う意味ではそのほとんどが、いまも、当時も、そして2000年前も、あまり変化なく通用するという事実をこの本で再認識したと言うことだ。

 最近の北朝鮮の核開発や米国大統領の環境破壊への無関心などを思い起こすと、人間が使用できる技術は加速度的に進歩しているにも拘わらず、それを使う人間の本来の性質は何千年もの間ほとんど変わっていないことを改めて痛切に感じさせられた読書だった。


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「いまをどう生きるか」を読んで [この頃思うこと]

「いまをどう生きるのか」を読んで【この頃思うこと-64-】  

 知人から誕生日にと標記の本(致知出版)が届いた。発刊時(H20)101歳の松原泰道師(住職で66歳以降に研究書を出され102歳で亡くなった仏教者)76歳の仏教研究家で作家の五木寛之氏との80歳を超えた釈迦に関する対談だった。

 私は祖父以来3代目のイザヤベンダサンの言う日本教キリスト派的な信者かも知れないが、戦後6年間以外は、戦中と戦後の海外生活も含め英国教系の聖公会の教会に属し、早期退職後19年間勤務した大学は二つともその系列でキリスト教なしでは私の人生は考えられない。仏教は日本人としての常識ほどの知識しかなく、本書は老人同士が80歳を超え伝道途次で病没した釈迦に関する対談であることも一老人としての興味を惹いた。同時に新約聖書では老後び特化した記述が少ないのはその教えが人生を通じてのものだろうがキリストが30数歳と若く磔刑で召命されたことも感じた。

 本書で読んだ多くのうち「有無不明な死後の世のためのバラモン教徒の現世での難行苦行は無意味、生者必滅、人生は苦を背負って生きる道、四苦八苦は時間的な生老病死と、空間的な四苦、全ては移りゆくので怠らず努めよ、無常は虚無でなく成長、老いには老いの境地、生涯修行臨終定年、肉体的若さ保持には精神的な努力必要」などは心に響く。

 キリスト教徒も米国では聖書を、字句通りで進化論など論外のfundamentalistから古文書として研究する者など種々だ。私には当代の人に理解できる言葉で書かれていると思える。企業では役目柄代表者として年末年始の寺社の安全祈願参拝に際し信仰上の代役を訊かれ、寺社参拝は墓地参拝と同じく祖先へ安全を願うので一神教の神への祷りとは違い参拝すると答えた。キリスト教徒の信条ニケア信教(Nicean Creed)には信じる信条としてキリストの誕生、復活などはあるが死後に関しては「来世の命を望む」と書かれ現世を生きる宗教の点では仏陀も同じだ。但し復活はキリスト死後2000年も経ついまも事実として何億人もの信者の心と祈りの中に生きている。生者必滅で現在の科学知識では物体としての身体は死滅するが、それは無(限)から生じ無(限)に戻ると納得している。仏教の世界でも無は虚無ではなくエントロピー増加と理解できるとは知らなかった。

 私の愛唱歌は「我が行く道いつ如何になるべきかはつゆ知らねど 主は御心なし給わん 備え給う主の道を 踏みて行かんひと筋に」である。ここでは自分の人生を便宜上バラモン教のマヌ法典の「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」に分け考えてみる。私の信条はプロテスタンティズム的な「世のために働く」道を見出して励んだ「家住期」が、企業と大学の計50年あり苦も多かったが喜びと感謝であった。それに比し「学生期」は徹底的にまわりから世話を受け、とくに幼時期数年は(多くは意識外で無責任にも思いもよらなかったが)親も含め他人の援助なしでは一日も生きられなかったはずだ。「林住期」は、海外生活の実施と家住期50年の暗黙知を認識知への記述に多忙だった。

80歳を過ぎての「遊行期」のいまでは、最近まで思いもよらなかったが「食」という生きる為のエネルギー吸収に精一杯となり、肉体的にも不具合箇所を感じている。その「備えたもう道」は、可能な限りまわりに迷惑をかけずに授けられた身体能力で未だに有する高度な可能性を(衰えを加齢のせいなのか気持ちのせいだけなのか見極めが難しくなりつつあるが)最後のときまでまで大事に育むことと思ってきた。このブログも本人はその一環のつもりだが他人には迷惑をかけているのかも知れない。

  本書で「遊行期」の私の思う備えられた道が仏陀の教えにも叶っているようで嬉しく思えた。

 

 

 


 


 

 

 


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誕生日 Compleanno【この頃思うこと-63-】 [この頃思うこと]

誕生日 Compleannoこの頃思うこと-63-】

 今日は私の誕生日だ。ついでで言うのも無礼至極だがエリザベス女王とローマ市の誕生日も同じ日のようだ。英語では誕生日の人には文字通りHappy Birth dayと挨拶する。しかし、40数年前に3年近く生活したイタリアでは誕生日を迎える人には”Buon compleanno”と言っていたのをふと思い出した。英語から語源を辿るとcomplete(完結する)anniversaryanno(一年)で、「さようなら」がgood-byの意となった類の「一年の完結お目出とう」が「誕生日お目出とう」の意に転じたと思われる。念のためe-mailでイタリア人の旧友に確認したら「その通りで誕生日はその人の一年が完結し次の新たな歳の始まりを祝う日だから」だと返事が来た。ついでに私が少し囓(かじ)った言語を調べてみるとラテン語系のフランス・ポルトガル・スペイン語では同じ発想で似た表現だがドイツ語・中国語は英語・日本語と同じ発想だ。その過程で私自身も高校までは「満の歳」ではなく「数え歳」で過ごしそれにまつわることを幾つも思い出した。「数え歳」で加齢するのは全員が共通の正月元日のみで、家族揃って「新年お目出とう」の後でそれぞれが「今日で何歳になりました」と報告したものだ。したがって誕生日そのものは当人が生まれた日以外の意味はなかったはずだが、事実は、昨今の満年齢で加齢する当人を囲んでバースデーケーキとご馳走で誕生日を派手に祝うのより何倍も嬉しい「ハレ」の経験を家族一同で共有していた。と言うのも、私の幼年時代の昭和十年代後半の社会には、現今に見られる毎日が「ハレ」のような豊かさはなく、社会全体の日常が「ケ」のつましい毎日だっただけに、多くの家庭では、少なくも我が家では、その加齢には関係ない筈の家族の誰かの誕生日を祝って盆・正月・祝祭日と同じく家庭内の皆にとって「ハレ」の日となり「ぼた餅や赤飯」などのご馳走が食べられよそ行きの服装を着られる大変に嬉しい日となったのだった。私のすぐ上の兄とは4年違の全く誕生の月日が同じだったから誕生祝いは二人一緒で済まされ、一日でも違えば二日は楽しめたのにと姉・兄から恨みがましく言われ自分も残念に思ったほどだ。

 昨年までと違って、この歳にもなると「よくぞこの一年を健康に生き延びたものだ。御心に沿うのなら今日からの新しいもう一年も完結したい」というラテン語系の発想の方に実感が湧く。「これからの一年間を、衰えを感じる身体で、今さら社会貢献などは望むべくもないが社会への迷惑を可能な限り少なくし、自身の少しの努力で達成可能な程度の心身の目標を持ち続け、毎日をゆったりとした気分でその目標達成に満足し、それが可能な備えられた道ならば健康寿命を全うすべく毎日少しでも進歩させ」ながら、死も生がある以上必定と受け入れたいと思っている。このブログ書きもその一環の最初だが、当人の自己満足とひきかえに読まれされる人に迷惑をかけていることだろうが、それはcompleanno に免じてお許しを乞いたい。

 

 

 


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ピエタと父親・母親・子供【この頃思うこと-61-】 [この頃思うこと]

ピエタと父親・母親・子供【この頃思うこと-61-】

 身近な人の死はこの世にある人に悲しみを残す。祖父や弟の死は幼な過ぎて覚えていないが、小学校にあがる前に多くの話を聞かせ面倒を見てくれた祖母は、私が8歳のとき病に伏し家族中が枕元に集まって皆で「末期の水」を口に含ませ最後を看取った。82歳だったので悲しかったが諦めもついた。父母のときも悲しかったが高齢で覚悟はできていた。

 しかし私が66歳のとき30歳も若く召された長女の場合は、逆縁でもあり私達家族に大きな悲嘆を長い間残した。その死の前に、以前に居住した米国加州の学界に参加を予定していたので、傷心を少しでも癒そうと家内と二人でそれに出かけ、帰りに娘と一緒にと考えていた、そして娘も幼時を過ごした、欧州を回った。娘の死の打撃は私より家内の方が強く永続して、私が仕事に多忙なせいなのか家内に比し非情なせいなのかと思ったりするほどだった。

 その旅の帰路で立ち寄ったフランクフルト教会入り口にピエタがあった。有名なローマのサンピエトロ寺院の、ミケランジェロによる聖母マリアが十字架から降ろされたキリストの身体を抱えている像と同じ主題の彫像で、私も聖母の悲しみに同感して立ち止まったが家内はしばらく泣き崩れていた。聖母の「抱えている死せるキリストに自分の身体の一部が死に絶えた気持ち」を見出し耐えられなかったという。確かに男性と違い女性は子供の肉体を自分のものとしている時期があり、自分の子供に対する思いが強いのかも知れない。

 娘の他界後の6年間に、所属していた大学の学生4名が亡くなり、学部長や学長として身につまされながら葬儀に参列しお悔やみを申し上げた。いずれも予期せぬ事故死だったので両親の嘆きはなおさら大きかったが、どの場合も共通して父親よりも母親の悲しみが比較にならないほど強く言葉のかけようもないほどの取り乱し方だった。このことから女性が男性より感受性が強いのではないかとも思われた。しかしそれはピエタで気付かされた、より本質的な、女性が男性と違い子供を自分の身体の分身としても感じていることによる方が大きいようにも思えた。

 一般に親と子との関係では、男親の方が淡白で理屈っぽいが女親は理屈にまして愛情に溢れていると言われ、私の場合もそうだと思う。加えて日本の男性(父親)はシャイで愛情表現が旨くない。このピエタの前で感じた性による違いで私が薄情なのかととの思いも薄められたような気もしている。これを読まれる方が男親・女親・子供の立場からどのような見解なのかを知りたい気がする。


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私の読書【この頃思うこと-61-】 [この頃思うこと]



私の読書【この頃思うこと-61-】2017,4,15

 記憶は二種類の体験で蓄積されるように思える。一つは自分が実在した時間・空間のなかで直接に五感全体を通して得られる狭義の体験で、もう一つは五感のうちのとくに視聴覚から得る狭義の疑似体験とも言うべき広義の体験だ。狭義体験では時間・空間的に限られているが広義の体験はそれらに束縛されず自由自在である。記憶ではそれらが渾然となって広義の体験となっているようだが読書に負うところが意外に大なように思われる。なお、疑似体験では最近は読書よりもTVなどによることが多くなったが、私個人にとって読書は積極的だがTVなどは受動的な気がする。

 私の読書量は少なくその期間・範囲も限られている。高校・大学留学まではそれらの準備や学習を言い訳に殆ど読書はしなかったが、ただ大学2年の夏休40日間は朝から晩まで近くの大学図書館から世界文学全集を借りて有名な小説の多くをを片端から文字通り乱読した。それを通してその國の社会事情を想像することで世界に興味が広がった気はするがとくには何も記憶に残っていない。会社勤務期間は当時最先端のコンピュータ使用のシステムの開発に追われその関連以外の分野の本には殆ど無縁だった。

 ただ、南イタリアに駐在した3年近くは例外で、日本とは手紙も1~2週間、電話は2日かかったし、時間的にはコンサルティングが仕事で夕方以降は自由になったので持参した「三国志」や「坂の上の雲」の類の幾つかの限られた手持ちの本を何回となく読み返しいまでもそれらを見ると内容が思い浮かぶほどだ。

 54歳で早期退職して大学へ移り、工学系の修士が準備もなく経営学部に籍を置くこととなった。最初の一年は授業を週に1時間半の3コマにして貰い、同僚が大学院やその後の研究で読んだというアメリカ経営学の専門書・論文など原書も含め31年分をキャッチアップすべく朝から晩まで必死に読んだ。その間の実務経験に照らしかなりの部分は充分納得できたが、難解な箇所や重要な点はノートに書き写した。それ以降も専門書は読み続けたが、中には実務を通して個人的体験としてしか残らない暗黙知を誰にでも伝わる認識知としてこのように理論的に記述するのかと驚いたものもあり、それらは自分達がしてきた仕事の理論付けや論文まとめに極めて役立った。

 研究分野が日進月歩だっただけに74歳近くの退職後は専門を離れ海外生活で狭義の体験を楽しんだ後、いまは興味の赴くまま多分野の本を楽しんでいる。 本を読み始めると全体に何が書いてるかに興味が湧いてくる。そこで最初の一回は速読し全体を見るが、私の頭のできが悪いか訓練が不足か、その両方だろうが一回だけでは充分に理解はできない。そこで興味あるところや不明の箇所は後で何回も読み直す。「宇宙は何でできているか」などは大学で学んだ物理の続きで多くが不明ながら何回か読んでいると「そういうことか」と少しずつわかってくる。そのようにいろんな本を忘れた頃に読み返すのも醍醐味だ。歴史ものや経済関連の本も友人から紹介されると読んでは、衰えた体力の維持と並行して、社会と直接関わりのない現状で他人に迷惑をかけない疑似体験を楽しみながら記憶を少しずつ増やしている。




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日本平の向こう(東)側【この頃思うこと-60-】 [この頃思うこと]


日本平の向こう(東)側【この頃思うこと-60-】

 日本平は、靜岡と清水の間の約東西6km南北4km高さ307mの、南端の東照宮近くは崖崩れもあるが、総じてなだらかな丘陵だ。戦中は小学校で日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征時に「草薙の剣」で災難を防ぎすぐ南の日本平の頂上でその絶景に見入ったと習った伝説の地で、晴天時の絶景を除けばありふれた低いただの丘陵だ。
 最近はパソコン使用が減り部屋から風景を眺めることが多い。高層南面ガラス戸の東から日本平の西側全貌と眼下の市街地に続き目を右に転じると4km先に海岸と海、それがさらに焼津の向こうまで続く。約5km先の丘陵頂上にはアンテナと日本平ホテルがえる。時折は最上階で北東の富士山、北の南アルプスの銀嶺、西の靜岡市街など眺める。

 3kmほど先の丘陵は年中緑豊かな景色を提供してくれる。その麓を西方へ抜ける東名高速の小さな車を東西に目で追うのも面白い。しかしその丘陵が向こう側の伊豆半島を隠し、一帯が駿河湾内ではなく太平洋に面しているかのように錯覚させる。バスに30分ほどの日本平頂上からは、快晴だと眼下に三保の松原や清水の港、その先を駿河湾沿いに目を東へ転じると興津や沼津海岸、さらに東南に戸田や土肥そして伊豆半島が果て南の水平線まで駿河湾一帯が一望に見渡せる壮大なスケールの感嘆に値する絶景が楽しめる「はず」だ。「はず」というのは、少しの雲でも全くその絶景は分断され曇天ではただの低い丘からの眺望に過ぎなくなるからだ。夏場は月の半分以下、冬場でも三分の一ほどは雲がかかって絶景の全貌は望めず、来客の案内で瞬時でも富士山周辺に雲一つないのに遭遇したことは1回くらいだ。数年前に頂上の日本平ホテルが改築を終えその部屋一杯のガラス戸越しの景色は絶景だと聞いてはいたが、好天を見越し予約しても雲が少しでも出ると絶景は消え失せて景色は保証の限りではない。
 雲一つない好天の日にはその向こう(東)側を想像し一度はそんな日に日本平ホテルに泊まり長時間かけて瞬時でも雲のない絶景に遭遇したいとはかねがね思っていた。3月9日に珍しく雲一つなく丘陵を朝日が上り天気予報では翌日も晴天とある。多分ホテルは満室だろうと駄目元で電話をすると何と空室があった。少し贅沢だったが予約して近くを通るホテルのバスに乗り2時半に着いた。快晴なのにそれでも雲は富士山の頂上付近のみに少し漂っていた。ベッドに横たわったり椅子にゆったり座ったりで雲が消えるのを待ったが残念ながら富士山の手前の雲は位置を変えても切れることがなかった。それでも丘陵の西側とは全く異質の、部屋一面の壮大な昼夕朝の景色を二日がかりで楽しんだ。駄文では表現
できず写真でも充分には伝わらないが紹介する。
                  

                    
  富士と清水市街  相模湾と伊豆半島    夕景

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